2022年7月 6日

社長の生い立ち

社長の生い立ち

 こんにちは、サンワコーポレーション株式会社の代表の脇坂亮作です。私は広島生まれの広島育ち、生粋の広島人として生きてきました。昭和41年生まれの56歳ふたご座です。

 子供時代は良く引越をした覚えがあり、父の車好きな趣味もあって、良くドライブに連れて行ってもらった記憶があります。黄金山という広島市南区の中では一番高い山の山頂にドライブした時は、レストハウス(今は解体されて展望台になってます)でお子様ランチを食べさせてもらった事が今も脳裏に強く残っており、家族の想い出の中で広島という街の良さを多く体験させて貰いました。

oitachi-1.png

 幼稚園に行く前のやんちゃな私

 昭和40年代の父は、酒の卸売会社の部長から独立して酒販売会社を経営しており、不動産業の経営もする など、当時としては多角的な経営をしていた様です。経済的にも恵まれた方だったと思いますし、幼稚園の頃は父がバザーに広島グランドホテルのシェフを連れてきてカレーライスを子供たちにふるまうなど、今の時代を見回してもそんな事する人居るのかな、と思う位に豪放磊落(ごうほうらいらく)な人でした。

 私は小学校時代に良く観音本町の酒屋に連れて行って貰い、自動販売機の缶ジュースや缶ビール、当時流行っていたワンカップ大関というお酒の自販機補給を手伝ったり、店内の清掃からお客様におつまみの販売レジ係、ショーケースのお酒展示など、ほとんど酒屋の丁稚奉公をしながら家業を手伝い、たまにごほうびとして昼ご飯や晩ご飯に喫茶店やレストランに連れて行ってもらって美味しいごはんを食べさせてもらっていました。今思えばこれが私が物を売る「商売」と初めて接点を持った時だったと思います。

oitachi-5.png
  小学生時代のサッカークラブ活動が一番楽しかった

「商売」って大変だなと感じた少年時代

 父の商売は私が小学校5年生の頃までは比較的順調だったみたいなんですが、ある時から急に事業の状態が悪くなっている事に気づきました。まあ、小学生が気付くんですから大体どんな状態なのか見当が付くかと思うのですが、当時の父は酒の並行輸入で洋酒を大量に安く仕入れて売ろうと考えていた様で、東京の大手商社の部長からこの話を持ち掛けられて「人生最大の勝負」に打って出た様です。父から聞いた話によれば、その当時父が保有していた土地や建物などの不動産、酒屋の販売権などを全て担保に入れて約6000万円位かき集めたそうです。そしてその結果、大手商社の部長が雲隠れして父は初めて「オレ、騙された」と気づいたのです。この商社元部長は後日逮捕されましたが、これは大きな事件として新聞にも掲載された様です。一番大きく騙されたのは四国の自営業者で、当時のお金で約1億円との事でしたが、父はその次に大きな被害者でした。

なんでタンスにお札を貼るの?

 洋酒の並行輸入サギ事件の後に、我が家には確実におかしな波が押し寄せていました。うちは広島市南区の一戸建てだったのですが、ある日の朝玄関のチャイムが「ピンポーン、ピンポーン」と何回か鳴り、母が玄関の引き戸をカラガラと開けると、そこにはスーツ姿のおじさんが何人か居ました。「こんな朝早くからうちに訪ねて来るなんて、一体誰だろう?」と考えていましたが、後からおばあちゃんに話を聞くと、「この家から引っ越さないといけない」と言われたので、今日は家の中の財産(お金)になるものがあるかどうかを調べに来たという事が分かりました。

 おじさん達は、家の中にあるタンスやテレビ、机などありとあらゆるものに赤いお札を貼ってから我が家を後にしました。この赤いお札を俗に「赤札」と言うのですが、要するに借金のカタ(代物弁済の品物)に持っていく物リストの様なものです。この日を境に、我が家の生活はスモール・アンド・プアなものになっていきました。

父が失踪、何か母子家庭みたいになっちゃった

 あれから異変を感じたのは、サギ事件から何日経っても父が家に帰って来ない事でした。母も色々な場所に連絡して、父の所在を探している様でしたが、なかなか見つからず困った状態に。結局母が今住んでいる家に代わる借家を見つけて、中学・高校生時代の数年間はそこで過ごしました。

 中学生から高校3年生までは本当に貧乏だった記憶が多いです。中学生時代は朝は4時半に起きて新聞配達をしてから家に帰り、学校へ。夕方には初めの頃はクラブ活動などもしていましたが、体力的にキツいのと、夕刊配達もやっていたので、家計の為に勉強も中途半端な状態で、中学生でもアルバイト出来る事は色々と探してやっていました。

 ですから高校受験勉強も苦しかった記憶があります。家計を何とかしたいと思う一心で、公立の工業高校を受験する事を決意し、当時の成績で行ける高校を先生に聞いた所、「広島県立広島工業高校の電気科なら受けてみるか?ここなら成績次第で中国電力に入れるから」という一言で、県立広島工業高校の電気科を受けて何とか合格したのでした。

高校時代に大好きだったサッカーをしたかったけどやっぱり...

 当時の広島県立広島工業高校(県工)は、とてもサッカーが強くて、本当に毎年高校サッカー選手権に出る強豪校でした。私も小学校からサッカーをしてきて中学校はバイトで途中挫折した記憶があり、高校に入ったらサッカーを楽しみたいと思ってサッカー部の入部届けを出したのですが、高校に入学しても貧乏との闘いはやはり続いていました。クラブ活動は思いのほかキツかったのですが、その頃になると父が失踪から見つかり、細々と酒屋の販売をしている事が分かったので、私も高校1年の夏休みから観音の酒屋に父を手伝いに行く事にしました。クラブは苦しいながら楽しかったのですが、顧問の先生に理由を話して退部させて貰い、予定通り1年の夏休みからずっと酒屋の手伝いをしました。それからというもの、高校が終わると新聞配達の夕刊をさせてもらったり、学校の許可を得て夜にラーメン屋で働いたり、もちろん朝刊配達も高校3年生の終わりまでずっとしました。

oitachi-2.png
   苦労をたくさんした頃の私

 新聞配達をしながら一番キツかった事は、夕刊を配る時に県工の職員室に夕刊を入れる配達エリアだった事でした。これは体力的にというよりも、精神的にキツかった事を覚えています。担任の先生に挨拶しながら、夕刊を置いて自転車に乗った時、「みんなクラブとかしてるのに、オレ何やってんだろう...」あまりに辛くて泣きそうになった事は今でも思い出します。 高校3年生も終わりに近づくと、高校在学生の特別料金で自動車免許が取れるという事もあり、運転免許を取りに公認前の指定自動車学校に合宿で免許取得に行き、合格。卒業前に自動車免許を取れる事が確定し、(もちろん免許証は卒業まで先生に預けましたが)さあ、中国電力を受験する成績も取ってるし、絶対に就職するぞ!!と意気込んで担任の下へ進路相談に行くと、先生から予想外の言葉が出ました。

oitachi-8.png
 電気科卒業なのに最近の同窓会では同業の友達も居ました。

おまえは大学に行きなさい

 「え。大学ですか?」私はそれまで大学のだの字も考えていなかったので、担任の先生からの話に少し戸惑いを覚えました。「でも受験勉強してないし、大学に行くお金もありませんし...」先生と色々な話をしていく中で、「来年から新しく大学の夜間部が開校するから、県工から初めての挑戦になるが、受けてみなさい」との事。先生はウチが苦しい家計だという事は分かった上で、苦労している事は承知で受験を勧めてこられたのです。「お前なら中電に入る事は出来るよ。でもお前にはもう少し学業を学んで欲しいと思う、お前にはそれが出来る筈だ。」先生は私がいつもアルバイトをしながら勉強してきた事を見てくれており、あえて夜間部への受験を勧めてくれたのです。

 私は先生に「出来るだけの事をやってみます」と言いました。そして1か月後に受験をし、何とか合格する事が出来ました。その学校は今は名称が山口大学工学部2部電気工学科となっていますが、当時はまだ短期大学部しかなく、名称も山口大学工業短期大学部電気工学科と言いました。

ホントに苦学生だった3年間

 大学時代はホントに苦学生を地で行く感じでした。「生まれてから今まで18年間、そして19年目の今この時に、オレはどこに居るんだろう...」もちろんハローワークです。何かいいアルバイト先は無いかを募集要項が書かれたファイルを持ってきては閉じ、別のファイルを見ては閉じました。最初の1年間はそれこそ鉄筋工や青果市場からスーパーへのトラック運転手、一日アルバイトのアンケート取り要員にもなり、交通整理の警備員も工事のお兄ちゃんから罵声を浴びながら経験しました。夏休みには実家に帰るのですが、長期休みのたびに毎年お世話になっている日本貨物検数協会(JCTC)で海外輸出用マツダ車の数を検数するアルバイトを広島の大学生と一緒にしました。そして山口宇部空港での調理師補助アルバイトを2年生の時に経験し、ここはコックさんから頭をこつかれたり、先輩アルバイトからいじめられたりしながら大学卒業まで本当に苦労して続けました。

 ですから3年生(卒業年度)の12月に就職で東京のプログラミング会社が決まった時にも、先輩コックから「お前はここに就職決定だー」と脅されながら、卒業時には快く送別会まで開いてくれました。「普通アルバイトにここまでせんぞー」と言われながら、勉強ももちろん苦しかったですが、本当に貴重な3年間の学生生活(半分社会人生活)を送る事ができました。

東京でのサラリーマン生活6年半で得たもの

 東京では就職先のT芝プロセスソフトウェア株式会社の電力第3課に所属し、主に東電配電システムの開発に携わりました。とは言っても私が担当したのは配電設備の停電が起こった時にどのように電力系統をつなぎ直すかという電力サブシステムの開発だったので、具体的な内容はあまり理解出来ませんでした。その後は関西電力のデータベース作成や、様々な変電所のサブシステムを開発しましたが、本当に自分が企業人として何を社会にもたらしているのかという事は何一つ分かった気がしませんでした。

 気が付けば毎日の残業で疲れ果てて京王線に乗り、家路につく、そして次の朝を迎えてまた京王線で会社と独身寮を行き来する生活が数年続きました。もちろん会社での人間関係はとても良かったですし、仕事に打ち込む楽しさを感じた時期もありましたが、一方で仕事に対するやりがいをどうしても見出せずにいる自分が居て物足りなさ、空虚さを感じていました。

父が膀胱がんに...

 東京での生活も6年目を迎えたある日、広島の姉から私宛に電話がかかってきました。内容は「父が膀胱がんになって大変」というものでした。私は驚きを感じながら「今の仕事を外す事は出来ないが、とりあえず広島に帰るから」と言って週末に広島に帰りました。父は病院の一室に入院しており、思いの他元気そうでした。そして「医者にライターを取り上げられた」事を話したと同時に、「タバコを止めないと死ぬよ」と言われた事も話してくれました。母に聞いた所、「この病院の入院費もどうやって支払うのか全然考えていない」と怒っていました。私は「本当に能天気なオヤジだなー」と半ばあきれながらも、「これは広島に戻れという事なのかもしれない」と本気で思いました。このままでは母が気疲れで本当に大変な状態になってしまうかもしれないと思ったからです。

東京に別れを告げて帰広

 広島には1994年(平成6年)の2月に東京の会社を円満退職してから帰って来ました。その頃母は広島市中区中町の賃貸マンションに姉と一緒に住んでおり、家賃も10万円支払っていました。それは母が夜からスナックで働いている事が理由でしたが、姉も会社からその賃貸マンションが近いので、そこに住んでいたのです。私はそこの和室6畳間を借りて、新しい就職先を探さなければなりませんでした。当時はバブル経済がはじけて経済不況の真っただ中です。特にソフトウエア会社の新規雇用は全くと言っていいほど0に近く、縁故(コネ)でもない限り中途採用の道はありません。私は3月、4月と就職活動をしながら、「もう職種なんて選んでいられない。何でもいいから就職するぞ!!」と腹をくくりました。

運命の分かれ道

 バブル崩壊の荒波をもろに喰らいながら、毎日ハローワークに足を運んでいると、姉から連絡があり、「私が勤めている不動産会社の部長に面接の段取りをしたから来る様に」との内容でした。まさかの営業職で、私が避けて来た職種でもありました。「今からやった事の無い営業職なんて、出来ないよ」と一度は思ったのですが、ここは姉の顔を立てて面接だけは受けようと腹を決め、面接会場に行きました。

 応接室では部長と次長が待っており、色々と話をしてくれましたが、結果として3ヶ月の試採用が決まり、私の営業マンとしての人生が始まる事になりました。「これは結果として、縁故(コネ)入社になるのかな?」と一度は考えたのですが、後年その部長に話を聞いた時に、「3ヶ月で辞めると思ったが、とりあえず使ってみるか」という気持ちだったそうです。それから約11年半という長い年月をその会社で過ごすのですが、正直な所、この会社と出会った事が私にとって現在の不動産事業と深く関わる原点となり、様々な人脈もこの時に多く生まれました。

oitachi-6.png
とにかく新しい挑戦で必死に勉強した頃です。

努力に勝る天才なし

 私が就職した会社は広島のK立ハウジングという住宅会社ですが、平成6年からの10年間は広島市内でかなり手広く分譲住宅用地や注文住宅の建築を行っていました。私も当初は注文住宅事業部に配属されたのですが、途中から分譲マンション事業部に配属が変わり、中国地方全域に分譲マンションを供給する仕事を受け持ちました。最終的にはエンドユーザーであるファミリー層が相手であり、結果として新築分譲マンションを数多く販売する事になりました。その時に出会ったお客様からは今でも年賀状を頂いたりしていますが、「お客様に物を売る」という私が子供時代に培った商売の原点が、住宅営業の世界でも非常に役立ったという事は疑いの無い事実でした。

 不動産業界に中途入社で入った私ですが、入社当初は28歳の新人という立場でしたので、とにかく毎日勉強漬けの日々でした。重要事項の説明をする為に必要な宅地建物取引主任者(現在の宅地建物取引士)も懸命に勉強して3回目で合格。やっと他の営業マンと肩を並べる立場になり、マンション管理士、管理業務主任者などの関連資格も取得しました。

 私は生来器用な人間ではありませんが、「あきらめずにやり続ける」事だけは自信がありました。昔から往生際の悪さというか、あきらめの悪さには自信がありましたので、勉強についても負けず嫌いの性格が人生を良い方角に向かわせてくれたのかも知れません。結果としてK立ハウジングには11年半の長きにわたり営業マンとして活躍させて頂きました。
oitachi-4.png
 宅建の勉強中に良く励ましてくれた猫のチビです。

転職そして独立

 私が独立して今のサンワコーポレーション株式会社の代表取締役になったのは平成23年ですが、平成9年頃から父は細々と不動産屋をしていた様で、会社名を有限会社サンハウスと言いました。父はある時私に「K立ハウジングでは住宅営業を学んだのだから、他の業務も別の会社で勉強してみたら」と言いました。具体的には土地の仕入についてノウハウを勉強しろという事でしたが、私はその意見には一理あると思いましたので、思い切ってK立ハウジングを退職し、広い目線で他の仕事もやってみようと転職活動をしました。そしてご縁があったS栄不動産株式会社に土地仕入担当として入社し、約3年間土地仕入のノウハウを学びました。

 S栄不動産での仕事は本当にキツかったですが、仕事の密度は本当に濃い内容であり、私にとってかけがえの無い財産となりました。また、当時の同僚や上司、後輩も良い人間が多く、今後の人生に向けて共々に成長出来ると感じる仲間たちでした。

もがいてあがいて

 S栄不動産は3年間勤務しましたが、私が依願退職する前に会社がリーマンショックのあおりを受けて民事再生法を申請した事により、私が当初希望していた3年間で必然的に退職する事になりました。その後はすぐに父の会社の取締役として共同経営者となり、会社名も有限会社サンハウスからサンワコーポレーション株式会社に変更しました。

 父との共同経営は上手く行く事もありましたが、お互いに意見が衝突する事も多く、決して順風満帆ではありませんでした。しかし、それでもこの会社を社会に必要とされる会社に育て上げようとの思いは誰よりも強く持っていましたので、社是・社訓の制定に始まり、不動産会社に必要不可欠な業務内容の整備・新規事業の開拓等を積極的に進めて行きました。この頃は私も学習塾など多角経営をしていたのですが、不動産事業が多忙になり、父の高齢と持病の悪化に伴って、体調も日に日に悪くなって行く姿を目の当たりにし、学習塾事業を廃業して不動産事業に専念する事にしました。

父ちゃん、ありがとう

 父の容体は日に日に悪くなりましたが、私は最後まで父の仕事に付き添い、病院にも車を運転して一緒に行きました。父が無くなる3年前からは人工透析が必要な状態になりましたが、それでもいつも新しい仕事は無いか、不動産業者の友人・知人に良く電話をしては仕事に繋げようと一生懸命でした。 父が無くなる前日の事です。病床から私と妻ににひとこと「ありがとうね」と言ってくれました。私は一度父の病室から外に出たのですが、何か胸騒ぎがして一度病室に戻り、「仕事のことは心配しなくてもいいから、ゆっくり休んでね。また明日来るからね」と言って病院を出ました。父の容体が急変したのは次の日の深夜2時頃で、「やはりあの言葉は私に対するお別れの言葉だったのか」と思い、苦労させられた想いとは別の感謝の想いも湧き出てきました。「あなたの子供としてこの世界に生まれさせてくれて、本当にありがとう。」私の心の中に残っていた全ての苦労はあの「ありがとうね」の一言できれいに清算されていました。

分譲住宅を手掛ける中で感じたもの

 平成28年には当社として初めての分譲住宅プロジェクトを立ち上げ、プロジェクト名および分譲住宅の名前は「トナリテ」としました。これは注文住宅「Tonalite Style(トナリテスタイル)」の前身となるネーミングなのですが、基本コンセプトは「1クラス上の分譲住宅」とし、使用する各部材や住宅設備に通常の分譲住宅では設置しないグレードのものを付けたり、分譲住宅には普通付けないALSOKホームセキュリティも標準装備していました。このトナリテは分譲住宅として10棟建築しましたが、お客様からは非常に好評を得ました。この調子で分譲住宅を建築して行きたいとは思いましたが、いかんせん広島では分譲用地が高騰しており、良好な土地を購入する事には大きなリスクを伴います。余程いい物件だと金融機関にアピールしなければ、分譲用地を仕入れる事が出来ない状況になって行きました。

株式会社ナックとの出会い

 分譲住宅用地を仕入れる事が出来ないまま、新型コロナの影響で資材単価も上昇し始めていました。「このままでは住宅事業がとん挫してしまう。お客様が本当に喜ぶ家を提供し続けるにはどうしたら良いのだろう...」私は暗中模索しながら色々なセミナーに参加し、解決策を模索していたのです。そんな時に「東証プライムに上場している工務店パートナーの会社がセミナーを開催している」との噂を聞き、半信半疑で株式会社ナックのセミナーに参加しました。セミナーを受講し終わった私は、「私の求めているお客様への接客スタイルはこれだ、これしかない」と確信し、気がつけば株式会社ナックの担当者と長時間話をしていました。

 お客様が本当に喜んでくれる住宅営業スタイルに到達するにはどうすれば良いか、お客様が本当に幸せに家を建てる事が出来る方法は何か、そして熟慮に熟慮を重ねてたどり着いた答えが「注文住宅商品「Tonalite style(トナリテスタイル)」の開発でした。

oitachi-9.png

トナリテスタイルの開発に精魂込めて取り組んだ頃

お客様が「トナリテスタイルで建てたい」と思う理由があります

 私が注文住宅に取り組んだ頃、大手住宅メーカーのコストの高さや、様々な下請体制など、色々な事を調査しました。そしてお客様がそれでも地元の中小工務店を選ばずに、大手住宅メーカーで家を建てる理由を掴みました。これはこの紙面では話が長くなるのでお伝え出来ないのですが、私は当社の注文住宅シリーズ「Tonalite style」が発表と同時にお客様の目に止まり、大きな支持を得る事を確信しています。具体的な販売開始は2022年の秋になるでしょうが、これから「Tonalie style」が注文住宅をご検討されるお客様のご検討の一つになる様に更なる努力をして参りますので、皆様にはどうか当社のこれからに期待して頂ければ幸いです。

 


2022年7月 2日

土地の無いお客様にも優しいトナリテスタイルの家づくり

ワンランク上の家を建てるコツ
■ 家は注文住宅で家族にもちょうどいいオリジナルなものを建てたい。
■ でも住宅展示場に行くと、土地が無いというだけで相手にされなかった。
■ 土地の購入にも仲介手数料が(土地価格×3%+6万)×消費税分が必要と聞いて、諸費用が不安になった。

皆さんいろいろとお悩みがありますね。

確かに家を建てる為には色々な費用が必要です。その中で大きなウエイトを占めるのが、土地購入費用と建物建築費用です。その他には諸費用と呼ばれるものがありますが、これはまた別に説明していますので、まずは土地購入費用についてお話します。

私たちの住宅セミナーや家づくり勉強会に来られるお客様の80%は住宅建築用の土地を持っていない、いわゆる「土地なし」のお客様です。お客様の中にはお父さんやお母さんがお持ちの土地、またはおじいさん方、おばあさん方の土地を相続または贈与という形で手に入れている方が約20%の割合でいらっしゃいます。こういった方々は、その土地に家を建てれば良いのですから、自然の流れで「家は注文住宅」となる事がほとんどです。

しかし、そのような恵まれた方々は別として、ほとんどのお客様は家を検討した時に初めて「どこかに気に入った土地があればいいな」と考えます。当たり前な事ですが、家は具体的な土地があって初めてその大きさや建てる形、予算などが決まってきます。注文で家を建てるという事は、

1.資金計画で土地建物の予算を決める 
2.予算が決まったら具体的な申込金融機関を決めて、そこに仮審査を申請する(本審査ではありません。あくまでも仮審査です。)
3.仮審査の状況を見てから具体的な家の形を決める

という流れになります。ですから、家を建てる為の土地探しは本当に重要な項目なのです。

トナリテスタイルで土地探しをするメリットって何?

トナリテスタイルで家をご検討されるお客様には、まずご家族のプロフィールを詳しく教えて頂きます。その上で、お客様が最も購入されるのに適した土地の情報を収集し、お客様にご提案するのですが、トナリテスタイルの運営会社は不動産業を得意とするサンワコーポレーション株式会社ですので、自社の持つ土地情報はもちろん、サンワコーポレーション株式会社と提携している不動産会社の情報も合わせてお客様に情報を公開しています。

そして、ここがトナリテスタイルで家を建てるお客様がお得な理由の一つなのですが、トナリテスタイルでご提案した土地を決めて頂いたお客様がその土地を購入するときの仲介手数料は、土地価格の2%×消費税で購入する事が可能です。これは当社と提携している不動産会社の企業努力によるものですので、とてもありがたい事なのですが、通常(土地価格の3%+6万)×消費税という仲介手数料の場合、2,000万円の土地を購入したとすると、仲介手数料は726,000円しますが、トナリテスタイルの場合は、440,000円となり、286,000円もお得に購入する事が出来ます。
totisagasi-4.png
totisagasi-3.png
また、トナリテスタイルの住宅用地を広島県内で確保する為に、サンワコーポレーション株式会社は広島県内の空き家情報を県内はもとより、全国の広島出身者から収集しています。相続や贈与で必要の無い土地や中古住宅を当社が買取する事により、新しく注文住宅をご検討されているお客様にいち早く不動産情報としてご提供する事で、ご好評を頂いています。

当社の空き家買取について、代表の脇坂が話している動画をUPしました。

トナリテスタイルで家を建てるお得感は他にもたくさんあるのですが、まず土地探しの段階からお得感を感じて頂けましたでしょうか?家を建てるという事は、家づくりに関わる様々な会社を選ぶという事ですので、選ぶ会社によって家づくりに掛かる最終的な費用も大きく異なります。そういう意味で皆さんには「理想に近い家を建てる事が出来た」、「この会社に任せて良かった」と言える賢い家づくり、会社選びをして頂きたいと思います。

なぜ、同じ予算でワンランク上の家が建てられるのか?

私たちは「同じ予算で建てるならワンランク上の家を建てる」ということをコンセプトに、家づくりをしています。しかも、基礎や構造など完成してしまうと見えなくなるところまで、強いこだわりを持って家づくりに励んでいます。

家づくりの金額の多くは、建材や職人さんに支払われる人件費家づくりの金額の多くは、建材や職人さんに支払われる人件費です。しかし、大手ハウスメーカーではそれに加えて全国ネットのテレビCMや住宅展示場のモデルハウス建設費・毎月必要な維持費、そして最も大きい費用として、全国に配置されている営業・非営業社員の給与や支店・営業所の維持管理経費など、あなたが購入する家の原価とは直接関係のない費用があなたの家の価格に上乗せされているのです。

そして最終的な建築ですが、いくら大手住宅メーカーといえども日本全国の工事現場に直接大工社員を派遣する事は出来ませんので、地元の工務店と請負契約を結び、建築工事を発注して家を建てています。いわゆる下請け会社に工事一式をさせており、メーカーからは現場監督を1名付けて監理させているのが実情です。この場合下請け会社はメーカーから請け負った金額の範囲内でお客様の住宅を完成させる責任がありますから、これも楽ではありません。利益率は大概低めですし、その代わりに多くの現場を受け持つ事で、辛うじて利益を得ているのです。こうなると1棟1棟にかけるモチベーションが低くなり、「早く次の現場に行かないと...」というプレッシャーの方が強くなってしまいます。結局良い家を建てる為に一番大切なのは「大工さんのモチベーションの高さ」に尽きるのではないかと思います。

もちろん大手住宅メーカーは独自の商品を持っているので、その商品を建てたい方は大手メーカーへの発注で良いかと思います。ただ、ここではあくまでコストパフォーマンスに優れた家を建てるにはどうしたら良いかを優先的に捉えて話をしていますので、そこはご了承頂ければと思います。
totisagasi-6.png

私たちはお客様への負担を抑えるために、お金のかかるテレビ広告や住宅展示場を持たず、同じ予算でも住宅設備や部材一つ一つを吟味してワンランク上の物をご提供出来るように、知恵と工夫を凝らした企業努力をしています。

また、当社では建材や材木を仕入れるコストにより多く気を配り、「同じメーカーの同じ品番の製品を買うなら他社よりも安く仕入れる勉強」もしています。これは、東証一部上場の株式会社ナックの協力を得て、全国8000社の工務店ネットワークで情報を集め、どの建材がいくらの仕入れ値で取引されているのか知ることで、仕入業者と逐次交渉を行い、建材や材木価格を抑える努力をしているのです。

これは一般的なハウスメーカーや工務店ではできない、株式会社ナックと協力関係にある当社独自の仕入れ価格削減の方法です。

また、大工さんや職人さんの人件費も、大手メーカーよりも高コストにはなりますが、その分高いモチベーションを持ってもらい、現場作業での施工精度を上げ、無駄をなくすことでコストダウンを図っています。これは「地域の見積もりと同じ価格で、もっといい家を建てたい」という、当社の社長の考えに、建築メーカー・協力業者・大工職人一同が賛同して頂いたからこそできることなのです。
totisagasi-7.png

知って得する魔法の「小冊子」限定プレゼント無料

  • 小冊子
  • イベント